仏像作者
円空(えんくう)・1632から1695
円空は寛永(かんえい)9年(1632)、美濃(みの)国竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中町)に生まれました。子どもの頃母を洪水で亡くし、その供養のため仏門に入ったとの伝承があります。その後、近江(おうみ)の伊吹山平等岩で修行をし、30歳を過ぎてから旅に出ました。大峰山(奈良県)の「笙(しょう)の窟(いわや)」での冬籠りや、法隆寺・三井寺で血脈(けちみゃく)を受けるなど、修行だけでなく教理についても研鑽にはげみました。また生涯に12万体の造仏を発願(ほつがん)したともいわれ、作品の所在は北海道から四国、九州に及び、本県内にも11体が確認されています。元禄(げんろく)8年(1695)7月13日、弟子の円長に「授決集最秘(じゅけつしゅうざいひ)」の口訣(くけつ)を授け、弥勒寺(岐阜県)の近くを流れる長良川のほとりで入定(にゅうじょう)したといわれます。円空仏の特徴は、木取りも大胆率直で、割ってできた三角形の稜角の部分を正面にして、その突出部に胸や合掌手を彫り込むなど、独特の造形性にあります。円空が栃木県に来たのは、天和(てんな)2年(1682)と元禄2年(1689)の2度です。星宮神社(岐阜県)にある円空関係の資料によると、円空は傳燈沙門高岳法師(でんとうしゃもんこうがくほうし)より日光修験の口伝(くでん)を授けられたとあります。1度目のときに造立したのが広済寺の「千手観音立像」ですが、その背面墨書銘には高岳法師とあります。2度目は里修験の明覚院に滞在したようで、明覚院伝来の「白衣(びゃくえ)観音立像」(個人蔵)がそのときの作です。なお埼玉県内の日光御成(おなり)街道沿いには、日光へ赴く途中に製作した作品が多数残っています。
木喰(もくじき)・1718から1810
木喰は享保(きょうほう)3年(1718)、山梨県西八代郡下部町古関丸畑の名主、伊藤六兵衛の次男として生まれました。22歳のとき、大山不動尊(神奈川県伊勢原市)に参籠(さんろう)して仏門に入り、各地を遍歴しました。45歳のとき、常陸(ひたち)国(茨城県)羅漢寺の木喰観海上人について、火食を断って五穀を避ける木喰戒(もくじきかい)を受け、それ以後木喰行道(ぎょうどう)と名乗りました。安永(あんえい)2年(1773)、56歳のとき日本一周千体仏成就を発願し、続いて二千体仏造像を本願として、北海道から九州までその足跡を残しました。文化(ぶんか)7年(1810)、93歳の長寿を全うして世を去りました。木喰が栃木県に来たのは安永3年(1774)と安永4年(1775)、安永9年(1780)の3度です。「納経帳(のうきょうちょう)」によると、最初のときは7月から9月にかけてで、西明寺や日光中禅寺、日光二荒山(ふたあらさん)神社、宇都宮二荒山神社、大谷寺、尾鑿山(おざくざん)神社、満願寺などを訪れています。2度目は7月から10月にかけてで、大平山や惣社、国分寺、興法寺などに詣でています。栃窪には安永9年9月21日から翌年の2月21日までの5ヵ月間滞在しました。会津から五十里(いかり)湖を通って日光に詣で、今市古賀志を通って栃窪村にやってきました。木喰63歳のときです。この滞在の折、等持院(とうじいん)薬師堂に残る薬師三尊像と十二神将像を製作していますが、銘文によると、弟子の白道(びゃくどう)とともに夜を徹して明け方にできたとあります。木喰仏の特徴は、まるい量塊をつみ重ね、そこに帯状の線を絵画的・装飾的に構成しながら力強い彫刻造形を創りあげていくところにあります。しかし、栃窪の仏像はいまだ木との戦いが目立つ初期の作品であり、独特の微笑もそれほど目立ちません。
高田運秀(たかだうんしゅう)・1767から1838
宇都宮で江戸時代初期から明治末年まで250年間続いた仏師高田家の七代。高田家は家伝によると慶長年間(1596~1614)に美濃国高田郡(現岐阜県養老町)から益子経由で宇都宮に移住したと言われます。初代運晴、二代運應は益子を拠点に活躍し、三代運貞より宇都宮に拠点を移しています。
系図によると初代運晴、二代運應、三代運貞、四代運阿、五代運啓、六代運應、七代運秀、八代運刻、九代運春、一〇代運秋と続き、江戸時代に下野国内で最も活発に造仏活動を行った一門です。その最盛期は六代運應と七代運秀の時代であり、現在のところ運秀の作が最も多く判明し、弟子に栄蔵、弁蔵、友蔵、広瀬斧吉等がいます。最初の作は安永七年(1778)、十一歳のとき六代運應の助手として参加した慈光寺(宇都宮市)の金剛力士像で、最後の仕事は死ぬ二カ月前の天保九年(1838)の弁財天・五童子像(芳賀町・常珍寺蔵)の修理です。