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鹿沼市の城3「久我城(鹿沼市久我)」

図(1)-久我城縄張り図(上が北)
久我城縄張り図(上が北)

第三回目は久我(くが)の“久我城”を紹介したい。
この城の歴史も定かではない。
一部の資料では、佐野氏方についた“久我氏”の城というが、確証が無いそうだ。
城は常真寺裏手に延びる舌状台地(舌を出したような細く突き出た台地)に築かれている。
主郭、二の郭、三の郭などが残るが、主郭北側の森の中は、遺構がはっきりしない。
何故であろう?

写真(1)-1949、1975年航空写真(国土地理院ホームページより)
1949、1975年航空写真

そこで、写真(1)の国土地理院の航空写真を閲覧させて頂くと、1949年時点で、主郭北側は大きく切り開かれ、改変されている事がわかる。
主郭以北の遺構が明確でないのは、このような理由があったのだ。
よって筆者の縄張り図では、赤い網掛けをし、“改変エリア”と表現させて頂いた。
では、ここからは遺構を詳しく見てみよう。

■主郭
ほぼ真四角な曲輪である。
東面を除き、全周に土塁が回っている。
虎口(郭への入り口)は、西の土塁の切れ目と考えられる。
対岸の二の郭と高さが揃えられていることから、ここには「木橋」が掛けられていたのだろう。
現在、北と南にも主郭に入れる道が存在するが、後世の改変と筆者は考えている。
主郭への入り口は西の一か所だけで良いだろう。

図(2)-横矢のイメージ図
横矢のイメージ図

さて、主郭の土塁をよく観察すると、西側の土塁の一部が微妙に西方に張り出している事が、図(1)でお分かりになると思う。
これは「横矢」(横矢掛け、横矢掛り)という。
図(2)のイメージ図を見て頂きたい。
まっすぐな塁線上からでは、直線的にしか攻撃できない。
それを、もっと効率的にしたものが、横矢である。
城内側の土塁を一部屈曲させて、橋を渡ってきたり、堀の中から攻めてくる攻城側の兵を、側面攻撃できるようにした工夫である。
また、横矢を掛けることにより必然的に堀も屈折する。
堀が屈曲することにより、堀先の見通しが悪くなるのである。

写真(2)-横矢部
横矢部

堀の中に敵兵がいた場合「あの角を曲がると、誰かが潜んでいるのではないか・・・」そんな恐怖心を攻城側に与える効果も、横矢にはある。

■二の郭
この横矢構造は、二の郭にも確認できる。
こちらは、屈折した土塁の上がひときわ高く、太くなってる事が図(1)でお分かりになると思う。
ここには横矢を伴った矢倉があったと考えられる。
横矢の効果と相まって、矢倉より堀中の敵兵をさらに上方から狙い撃ちできるのだ。

写真(3)―二の郭矢倉台
二の郭矢倉台

一般的に関東では、横矢の使用は、戦国期からの城に多くなったと言われている。
しかし考えてみれば、横矢は極めて単純な発想と言える。
堀、土塁を曲げれば、効果的な攻撃ができるのは当たり前で、横矢は戦国期以前から周知されていたと考えたい。
これらを木橋や虎口等と絡めたり、組み合わせたりする事により、さらに効果的に使用するようになったのが、戦国期からだったのではなかろうか。
さて、二の郭でハッキリしないのが二の郭への虎口(入り口)である。
主郭のように明確に「ここだ!」と言える場所がない。
おそらく、北側の塁線のどこかと考えられるが、先述した近代の破壊によってわからなくなったと考えている。
 
■三の郭
二の郭のさらに西から北にかけて、三の郭がある。
この郭の堀は、丘陵斜面を一直線に北上し、東にクランクして忽然と消えている。
いわゆる一番外周の堀と思えるが、残念ながらここも遺構が失われてしまった。
おそらく主郭、二の郭をすっぽり囲んでいた構造だったと考えられる。
 
 
さて、横矢を中心に久我城を紹介してきた。
この地域にこれだけの規模の城が、どうして存在するのか?
近隣には第2回で紹介した龍階城や、その他、金ケ沢城、上南摩上の城など、城主不明の城が存在する。
当城主の久我氏含め、謎の多い地域である。
 
追記
※常真寺近隣には地元では有名な蕎麦屋が多数ある。
城見学でお腹を満たしたいときは立ち寄ると良い。
※筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
URL:http://saichu.sakura.ne.jp/tochigitop.html(新しいウィンドウが開きます)

図(3)-城の位置(国土地理院地図)
城の位置


ライター 縄張りくん

掲載日 令和3年7月13日

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