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鹿沼市の城7「容愛城(鹿沼市草久鹿ノ入)」

 
()()()図1ー容愛城縄張り図(上が北)
図1容愛城縄張り図(上が北)
 
第7回目は、容愛城を紹介したい。
第1回から6回までは、割と大きな城跡を紹介させていただいたが、この容愛城に関して言うと、その規模はかなり小さい。
しかし、土塁、堀切をちゃんと施していることから、城(※1)としてちゃんと機能していたと考える。
さて、鹿沼市発行の城郭調査資料「鹿沼市の城と館(鹿沼市業書7)2002年 鹿沼市史へんさん委員会」(※2)では、残念なことに、この城の位置を間違えて掲載している。
もし、この城を訪ねようと思う方がいらっしゃれば、当所は山深く、遭難に繋がる可能性もある為、本稿の位置図を参照にして頂きたい。

■城の立地
城は標高510m、山の中腹にある。
位置図からもわかるように、眼下約150m下の“鹿ノ入(かのいり)”の集落全体を見渡せる場所に立地している。
このことから、この城の大きな築城目的は、この立地を利用し、鹿ノ入の集落及び周囲街道を監視する事であったと考える。
資料※2では、国土地理院の地形図上に記載されている山道を封鎖する関所と仮定しているようであるが、そもそも城の位置を間違えているので、その解釈は誤りだろう。
また、当城は地元の地誌にその存在が記されているのみで、築城歴史については明らかでないようである。
通常であれば、周辺を治める武士達ということになるが、村の人たちが自ら城を築き、城を管理するという考え方(※3)もある。
良くわからない所も、この城の魅力である。
 
■城の遺構
非常にシンプルな構造である。
南西側の山続きを一本の堀切(尾根続きを断ち切る堀)で区切り、城域を区画する。

写真1ー堀切
写真1堀切
 
主郭(本丸)は最高所の四角い空間である。
その他は、斜面を段々畑のように加工し、曲輪(人工的に平にした場所)としている。
主郭近くは広めの曲輪を配置しているが、東斜面には人一人が立てるか立てないかの細い帯状の曲輪を数段配置する。
筆者はこれらの細い曲輪は人が待機するというより、図3のように逆茂木(先端を尖らせた枝を外に向け、敵の侵入を防ぐ防御壁)や木柵だけを施し、障壁として使っていたのではないかと考えている。
 
主郭につながる通路であるが、遺構から判断すると、図2、3のように道をジグザグに曲げ主郭へ繋げていた様子が伺える。

図2ー主郭下通路の推定
図2主郭下通路の推定

これは、主郭への直接攻撃を防ぐための時間稼ぎの構造である。
おそらく往時は、各曲輪の際に柵が設けられていたと考えられるので、下方から敵が攻め上がってくるとすれば、主郭までの通路がジグザグになっているのがわかりづらいだろうし、頂上に到達するまでに時間がかかる。
その間に守備側は相手を攻撃するという戦術だったのだろう。

図3ー主郭下まわりのイメージ図(あくまでも筆者の想像です)
図3 主郭下まわりのイメージ図

このように大変小粒な当城であるが、遺構の使われ方を想像しながら山を歩く事も山城歩きの楽しみである。
 
城の位置図(国土地理院地図)
城の位置図
 
※1 本コラムでは、“城”という物を以下のように考えている。
「戦闘を想定し作られた、地面の土木工事を施した、または、施したとされる領域」(土木工事:曲輪・堀・土塁・石垣など。以下、遺構と称す)
城とはそもそも”そこに留まり、人々の命を守る”施設であり、そのような意識があるから、人やお金や時間を掛け、地面を掻き回し、堀や土塁を作る。
城の伝承があったとしても、いつでも放棄して良い場所には、わざわざ地面をかき回す必要が無いので、土塁や堀は存在しない。
それらは、ただの”陣地”であって“城”では無いと考える。
※2 鹿沼市の城と館(鹿沼市業書7)2002年鹿沼市史へんさん委員会
※3 城の研究者の間では、村民が城を管理し、その城で戦争に備えたり、立て篭ったりする「山小屋」「村の城」という考え方も提唱されている
※4 筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
URL:http://saichu.sakura.ne.jp/tochigitop.html(新しいウィンドウが開きます)


ライター 縄張りくん


<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、鹿沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。

掲載日 令和3年11月2日

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