鹿沼市の城17「口粟野岩鼻城(鹿沼市口粟野)」
鹿沼は城の宝庫である。
今回のご紹介は、粟野城から県道15号線、南西に下ること1.5km、
粟野中学校の前の山の口粟野岩鼻城である。
■写真1ー口粟野岩鼻城を望む
この城は、鹿沼市の調査の一環で見つかったと聞いている。
筆者には名前の由来がわからないが、今やGoogle Mapでもこの名称が使われているため、本稿でもこの名称を使わせていただくこととした。
城に関する歴史は明らかではないが、北東に粟野城があり、その関連性を指摘することは容易い。
粟野城は佐野氏の支城であったが、近隣の皆川氏との攻防を繰り返し、戦国期には皆川氏が治めることとなった。
最終的には、皆川氏が佐野氏忠(さのうじただ)(北条氏忠)と手を結んでいたため、天正18年(1590)小田原の役では豊臣軍の攻撃を受け、粟野城は落城した。
口粟野岩鼻城はその粟野城の南西にあり、その距離感から粟野城の支城として機能していたと思われるため、共に落城したのではなかろうか。
城は標高262mの山頂を主郭(本丸)に、堀、土塁(盛土による防壁)、曲輪(くるわ、人の手によって加工された平坦地)で周囲を固めるつくりである。
図を見ていただければ一目瞭然であろうが、基本単郭の城(主郭のみの1つの曲輪で成り立つ城)と考えられる。
主郭への虎口(入り口)は北と南東側に堀底からスロープ状の曲輪が続く事から、これらが虎口と考えたい。
■図1ー口粟野城縄張り図
主郭から派生するA~Dの4本の尾根に対しては、それぞれ堀切(山の稜線に対して、垂直に掘られている堀)や、横堀(山の等高線に沿って掘られた堀)が配置されており、尾根筋からの敵の侵入に備える形をとっている。
- A尾根は2重堀(堀を2つ重ねる事)となっている。
- B尾根は、主郭から少し離れたところに堀切が1か所ある。
- C尾根は、西の山と峰続きになるところから、距離を置いて2つの堀切で侵入を抑え込もうとしている。
- D尾根の堀は横堀で、主郭回りでは一番しっかりしている。
■写真2ーD尾根の横堀
主郭への大手筋は麓からの往来を考え、防御施設が一番手薄なところが、大手となることがセオリーである。
筆者は今のところ一番尾根の流れが麓まで緩そうなB尾根が大手筋だと考えている。
しかしながら、主城である粟野城方向へはD尾根筋が一番近い所から、D尾根の可能性も残しておこう。
鹿沼の城は本当に素晴らしい。
■図2-口粟野岩鼻城現状鳥観図とかつての姿の想像図
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■城の位置図(国土地理院より)
※筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
ホームページ名帰ってきた栃木県の中世城郭
URL: https://saichu.sakura.ne.jp/
※参考文献国書刊行会「図説栃木の城郭」余湖浩一・渡邉昌樹2024
<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、
鹿沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。
ライター 縄張りくん