絵画作者
高久靄厓(たかく あいがい)・1796から1843
寛政(かんせい)8年(1796)、那須郡杉渡戸(すぎわたど)の生まれ、名を徴(ちょう)、字(あざな)は子遠(しえん)、通称秋輔(しゅうすけ)と称しました。幼少より絵を好み、馬方あるいは煙草職人として生活するかたわら、小泉斐(あやる)や平出雪耕(せっこう)に絵を学んでいます。靄厓は文政(ぶんせい)6年(1823)、27歳のとき江戸に出て関東画壇の大御所谷文晁(ぶんちょう)の写山(しゃざん)塾に通い、そこで知りあった渡辺崋山(かざん)や立原杏所(たちはらきょうしょ)、椿椿山(つばきちんざん)らと友情を深めました。文政11年(1828)、33歳のとき北陸から仙台方面に遊び、さらに天保(てんぽう)5年(1834)、39歳のときに3度目の仙台旅行を行いました。このとき調査した作品の数々が「過眼録(かがんろく)」に描かれています。また翌年には古社寺所蔵の名画臨模(りんぼ)研究のため関西方面への旅に出ています。このときの成果は、靄厓の画風形成に大きな影響を与えました。また関西の文人画家たちとの交流をも深めました。靄厓は江戸に出たり各地に旅行を行ったりしていますが、常に鹿沼を拠点にしていて、楡木(にれぎ)の両親や鹿沼の友人たちに大事な所蔵品などを預けたりして、旅から帰ると立ち寄っていました。しかし天保8年(1837)、42歳のとき江戸に永住を決意して鹿沼を離れました。その後も大橋淡雅(たんが)をはじめ故郷の人々との交流は続きましたが、天保14年(1843)4月8日、48歳で両国薬研堀晩成山房(やげんぼりばんせいさんぼう)でその生涯を終えました。墓は谷中(やなか)の天龍院(てんりゅういん)にあります。彼の画風は、27歳で江戸に出たときと40歳の上京を境に大きく三つに分けることができます。第一期は池大雅(いけのたいが)に私淑し如樵(にょしょう)と号した時期、第二期は明清諸家の作品を模写して靄厓樵者(しょうじゃ)と号した時期、第三期は自己の画風を確立した疎林外史(そりんがいし)を号した時期です。
田崎草雲(たさき そううん)・1815から1898
江戸神田小川町足利藩邸に生まれ、金井鳥洲、加藤梅翁、青木南溟らに師事し、絵を学び、また、谷文晁、渡辺崋山らに私淑し、四条派、琳派、大和絵、南北合法を学び足利藩の絵師に登用されました。一方で草雲は、幕末勤皇の志士として民兵誠心隊を組織し、足利藩のため奔走して足利を戦火から救っています。維新後、草雲は再び画道に専念し次第に作品が中央画壇で認められ、内国絵画共進会、海外の万国博覧会などで受賞するようになりました。そして、皇室技芸員の一員として選ばれるなど、明治画壇の巨匠となりました。代表作に「秋山晩睴図」などがあります。県指定の「天保九如図」は『詩経』天保編による画題で、蓬莱山に日月ともに並び出た理想の境地を画いたもの。1866年草雲52歳のときの作品ですが、この年藩の財政を助けるため絹百幅を描いており、その前年には誠心隊を組織、総司令となっている。このころの作品を見ると雄渾な筆致で色彩豊かなものが多く見られます。
寺崎広業(てらさき こうぎょう)・1866から1919
慶応(けいおう)2年(1866)、出羽(でわ)国(秋田県)秋田藩の家老の子として生まれました。本名は広業(ひろなり)です。秋田の画家小室秀俊に狩野派を、平福穂庵(ひらふくすいあん)に四条派を学んでいます。上京後、岡倉天心の日本青年絵画協会結成に加わり、さらに日本美術院創設に参加しました。文展では1回目から審査員となり、帝室技芸員にも選ばれています。晩年は南画にも親しみ、天籟(てんらい)画塾をひらいて、そこから中村岳陵(がくりょう)や野田九浦(きゅうほ)らを輩出しています。広業の「筆の軽妙自在」さは高く評価され、線の使用法や墨彩の技術には目を見張らせるものがあります。大正8年(1919)、54歳で没しました。
荒井寛方(あらい かんぽう)・1878から1945
明治11年(1878)、氏家町の町絵師荒井藤吉の長男として生まれました。本名は寛十郎(かんじゅうろう)です。明治32年(1899)、上京して水野年方(としかた)に入門、歴史画を学びました。明治35年(1902)、国華社に入社、ここでの10年間に及ぶ仏画模写の仕事は寛方に大きな影響を与えました。また大正5年(1916)には詩聖タゴールに招かれてインドに渡り、アジャンターの壁画を模写しています。以後、それまでの古典研究とインドでの体験によって、独自の画風を形成。昭和15年(1940)には法隆寺金堂(こんどう)壁画の模写に従事しますが、業なかばの昭和20年(1945)、福島県郡山駅で急逝しました。
小杉放菴(こすぎ ほうあん)・1881から1964
明治14年(1881)、日光二荒山(ふたあらさん)神社の神官の家に、6人兄弟の末弟として生まれました。本名は国太郎です。当時日光に住んでいた茨城県出身の洋画家五百城文哉(いおきぶんさい)に絵を学んでいます。17歳のとき上京しましたが病のため帰郷、その頃未醒(みせい)と号しました。明治32年(1899)、再度上京して小山正太郎の不同舎(ふどうしゃ)に入門、日露(にちろ)戦争に際しては寺崎広業らと従軍画家として朝鮮に渡り、戦場の挿話や情景を描きました。明治43年(1910)、第4回文展で郷里の叔父をモデルに描いた油彩画「杣(そま)」で三等賞を受け、さらに翌年の第5回文展でも「水郷」で二等賞を受賞し、中央画壇での確固たる地位を築きました。この作品はフランスの瞑想的装飾画家シャバンヌの影響を受けた作であり、未醒時代の代表作でもあります。大正元年(1912)、横山大観(たいかん)と2人で「絵画自由研究所」設立の構想を発表します。この考えは「再興日本美術院」に受け継がれ、同人(どうじん)として参加、洋画部門の責任者となりました。しかし大正9年(1920)には日本美術院を脱退して、同11年(1922)に梅原龍三郎や岸田劉生(りゅうせい)らとともに春陽会を結成しました。昭和2年(1927)、芭蕉(ばしょう)の「奥の細道」の旧跡を追って東北、北陸方面を旅行、しだいに水墨画を描くようになります。この頃、未醒から放庵と改号し、さらに昭和10年頃から放菴と署すようになります。昭和20年(1945)、戦災で新潟県妙高町赤倉に移住、戦後は春陽会や墨心会などに出品しています。昭和39年(1964)4月16日、赤倉にて死去しました。「放菴」と呼ばれる独自の麻紙(まし)に墨をにじませた画風は多くのファンを引きつけました。また歌人としても知られ、歌集や随筆集など多くの著書も残しています。