鹿沼市の城18「怪しい城郭的遺構(鹿沼市各地域)」
鹿沼は城の宝庫である。
今回は趣向を変えて、「城跡」とするには判断に迷う「怪しい城郭的遺構」について、お話ししたい。
専門書では「城郭類似遺構」などと称されるものである。
実は鹿沼市内には、城の遺構かどうか判断に迷うものが結構存在する。
事例として、4つをご紹介したいと思う。
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茶臼山
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大久保城?
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薬定寺裏山の土塁
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西沢の城郭的遺構
■1、茶臼山(鹿沼市楡木町)
ここは、市の刊行物や郷土史でも「茶臼山城」として紹介されている。
「那須記」に出てくる「磯城」として、当地が推定されているようである。
しかし、那須記自体が史実と異なるものが含まれる少々怪しい資料である。
しかし、「茶臼山」という地名は、城跡につけられる可能性が高い城郭関連地名である。
例としては日光市の小倉城も「茶臼山」という山の上にある。
さて、当地を現地調査してみた。
たしかに現場には広い平坦地と、そのまわりに細かな段が残っている。
峰続きには浅い溝状のものが残っており、これを堀として2重堀とする資料もある。
ここで、本コラム第16回でも紹介した、栃木県が実施した航空レーザ測量を基にした「微地形図(CS立体図)」◆図1を見てみよう。
「CS立体図」とは、長野県林業総合センターが考案した微地形の図表現方法だ。
◆図1,CS立体図(茶臼山)と現地図と位置図
これを見ると、たしかに当地は平らな地形が段々になっていることがわかる。
問題は、これを城の遺構とするか否かである。
周辺には明確な堀や土塁(土を高めてでできた障壁)もなく、管見の限りでは「城郭」として確定した遺構は見られない。
切岸(城の防御として作る段、土の壁のこと)のように見えるものは、高さが無い。
当地が本当に「磯城」の跡なのか、という疑問が生まれくる。
ここが間違いなく城だった場所だとしても、筆者は今残るこれらの平地面と段、峰続きの溝は、近代の耕作の跡ではないか、と考えてしまう。
現在の遺構を「城の遺構」と断定するには、地表面の調査だけでは難しいのではないだろうか。
ちなみにCS立体図で当地近隣の地形も確認してみたが、城と思える場所はなかった。
◆写真1-茶臼山の段
■2、大久保城?(鹿沼市下大久保)
市の刊行物「鹿沼の城と館」で紹介されている。
郷土史の記述から城跡ではないかと推定されたようである。
◆図2,CS立体図(大久保城)と現地図と位置図
推定場所は長昌寺の裏手の山であり、筆者も現地調査を試みた。
しかし、現在残る姿からは、城と断定できるものは無い。
東の峰続きに土壇が残るが、背後に堀切(尾根を遮断する堀)もなく、単なる土の塊で、到底城の遺構とは呼べない代物である。
ちなみに、この周辺も、CS立体図で当地近隣の地形も確認してみたが、城と思える場所はなかった。
◆写真2-大久保の土壇
■3、薬定寺裏山の土塁(鹿沼市板荷)
ここも■2と同様、市の刊行物で紹介されている。
なぜ紹介されたのかは不明である。
現地を調査すると、山頂部に確かにY字型の土塁がある。
中央部のみ四角い形状をしている。
◆図3,CS立体図(薬定寺土塁)と現地図と位置図
このY字の土塁は人が作ったものであることは間違いなさそうだが、山頂部分にはこの土塁以外、堀や切岸などの遺構はない。
では、何のための土塁なのだろうか。
刊行物では、トヤバ(歴史民俗用語で、網を張って鳥を捕る場所)や宗教施設ではないか、とも推察している。
筆者はお焚き上げの場所や、戦時中の監視施設(粟野城の防空監視哨のような)の基礎の可能性も考えられるのでは、と推察している。
どうにもわからないので、市民の方々の情報をお聞きしたいところである。
結論として、筆者は城の遺構とは断定できないと考えている。
なお、山頂から少し下った東斜面に、南北に走る帯状の細い地形が存在するが、堀のようにも見えるが、通路の跡のようである。
また、この周辺も、CS立体図で地形を確認してみたが、城と思える場所はなかった。
◆写真3-山頂背後はY字土塁
■4、西沢の城郭的遺構(鹿沼市西沢町)
ここは筆者がCS立体図を検索していた際、「城跡なのでは?」と考えた場所である。
地誌の検証や現地聞き取りなど、まったく実施できていないが紹介しよう。
◆図4,CS立体図(西沢)と現地図と位置図
CS立体図では、ひょうたん型をした地形と、それを囲む堀のような陰影が見て取れる。
筆者の経験値で言うと、このような地形の場所は、城の可能性が高い。
また、この地は滝尾山城と南摩川を挟んだ対岸の丘にあり、城であれば滝尾山との関連性も高いと考えた。
しかし現地調査の結果、城と断定するには少々苦しいということとなった。
確かに丘の上には、ひょうたん型をした切岸が全周に認められる。
しかし、その内部は北から南に傾斜した自然地形であり、曲輪(人が傾斜地などを、居住を目的に平に均した地形)としての加工がされていないようである。
ひょうたん型を囲む帯状の陰影は、最北部は堀切のように見えなくもない。全周堀のようにも見える。
しかし、非常に浅く、しかも幅が広い。
またこの帯状の陰影は、最南部では薄くなってしまう。
結局、現地調査では、城跡と断定するには、パンチが無さすぎるという結果になった。
ただし、これらの遺構は人が造作したものであることは間違いなく、城であることを完全には否定できない。
近代の耕作地の跡かとも考えられるが、それでは、ひょうたん型の周りの帯状の陰影は、何のために作られたのだろう。
南斜面は竹林になっているところもあり、それに関する造作なのだろうか。
いずれにしろ前述のとおり、聞き取りも行えていないので、なんとも言い難い遺構なのである。
◆写真4-最北の堀切様の遺構
以上、怪しい場所を4つ紹介した。
鹿沼市は城の宝庫である反面、怪しい場所もたくさんある。
なにか、本稿に関連する情報をお持ちの方は、この通信を通じてご連絡いただければ幸いである。
────以上────
◆城の位置図(国土地理院より)
各項に記載のため省略
※筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
ホームページ名:帰ってきた栃木県の中世城郭
URL: https://saichu.sakura.ne.jp/
※参考文献国書刊行会「図説栃木の城郭」余湖浩一・渡邉昌樹2024
<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、鹿
沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。
ライター 縄張りくん