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屋台作者

磯辺儀左衛門凡龍斎信秀 (いそべ ぎざえもん ぼんりゅうさい のぶひで)

屋台の彫物は神社建築と同じく、磯辺系の彫物師によっていますが、下材木町と銀座1丁目の一部彫刻は、磯辺系の本家筋である儀左衛門四代信秀によって製作されています。天保(てんぽう)3年(1832)、68歳の作です。四代信秀は初名を歳重(とししげ) といい、兄秀重(三代信秀)、弟周治正秀とともに江戸の名門後藤正常に師事しました。天明(てんめい)元年(1781)に17歳で日吉(ひよし)神社(下南摩町)の彫刻を手がけ、文化(ぶんか)年間に今市市岩崎の岩崎観音堂、同市長畑の西沢神社、上久我の加蘇山(かそさん)神社などに作を残しています。文化7年(1810)に千葉県佐原市の観福寺本堂内欄間(らんま)彫刻、天保6年(1835)に足利市葉鹿仲町(はじかなかまち)の山車(だし)彫刻を手がけるなど、遠隔の地域にも作が伝わっています。四代信秀は、三代信秀が家を出ると、兄にかわって三代を名乗り、凡龍斎を号としていました。

後藤周治正秀 (ごとう しゅうじ まさひで)・1772から1842

正秀は磯辺儀左衛門四代信秀の弟で、職姓後藤を名乗りました。文政(ぶんせい)元年(1818)に日光東照宮五重塔彫物方棟梁(とうりょう)となり、その優れた彫技と相まって名をなしました。文政5年(1822)の上田町(かみたまち)屋台、天保7年(1836)の仲町屋台や、各地の屋台・天棚(てんだな)などの彫刻に「日光五重御塔彫物方棟梁後藤周治(次・二)正秀」の銘を残しています。正秀は、市内初見の34歳の作である北赤塚町の稲荷(いなり)神社など、初期(文化年間)は修行の地である江戸神田住とし、以後、富田(とみた)住、宇都宮大町住、日光御神領(大桑)住など、住所を移しています。宇都宮市徳次郎(とくじら)町上町屋台も正秀の作ですが、これは明治6年(1873)に鹿沼宿田町(たまち)から購入されたものです。

磯辺儀兵衛 (いそべ ぎへえ)

磯辺の分家筋は儀兵衛を襲名し、その祖である杢斎(もくさい)は久我神社(上久我)の彫刻を、二代儀兵衛隆信(たかのぶ)は今宮(いまみや)神社(今宮町)唐門の彫刻を手がけています。

磯辺儀兵衛松需敬信 (いそべ ぎへえ しょうじゅ たかのぶ)・1830から1897

敬信は天保元年(1830)に二代儀兵衛隆信の子として生まれ、銀座2丁目や仲町などの屋台彫刻を手がけています。敬信作の初見は嘉永(かえい) 4年(1851)の壬生(みぶ)町助谷の天棚彫刻で、その後は各地の屋台や社寺の彫刻を手がけ、没年の明治30年(1897)までに一族中最も多くの作品を残しています。

石塚直吉知興 (いしづか なおきち ともおき)

郷土の彫物師石塚初代直吉知興は、上久我富沢の熊野(くまの)神社など鹿沼方面の仕事が多かったためか、天保15年(1844)頃にその子吉明とともに鹿沼に移住しました。文政7年(1824)の石橋町(いしばしちょう)薬王寺(やくおうじ)本堂内欄間などの社寺彫刻や、上材木町(かみざいもくちょう)、戸張町(とはりちょう)などの屋台彫刻を手がけています。遠く隔った茨城県大子(だいご)の金町屋台にもその銘を残しています。

石塚直吉吉明 (いしづか なおきち よしあき)・1795から1868

石塚二代直吉吉明は寛政(かんせい)7年(1795)に田沼町で生まれ、50歳の天保15年(1844)頃、鹿沼に移住しました。弘化(こうか)の今宮神社大修理の際には、同3年(1846)に大羽目(はめ)の大作を仕上げています。また上石川の天棚彫刻は3年がかりの大仕事でした。神社彫刻では戸張町の星宮(ほしのみや)神社、草久(くさぎゅう)の姫宮(ひめみや)神社に作を残し、屋台彫刻では下田町(しもたまち)や戸張町のほか、今市市住吉町、日光市大工町、宇都宮市徳次郎町中町などを手がけています。檜刊亭(ひかんてい)を号とし、また榎廼門(えのきのもん)吉明を名乗る狂歌人でもありました。慶応(けいおう) 4年(1868)、74歳で没し、上材木町宝蔵寺(ほうぞうじ)に埋葬されています。

石塚直吉吉勝《吉国》 (いしづか なおきち よしかつ《よしくに》)・1841から1871

石塚三代直吉吉勝は初名喜代松(きよまつ)、天保12年(1841)に田沼町で生まれ、若くして奈佐原(なさはら)町奈佐原神社の仏像や馬頭町大内屋台などに喜代松銘を残しました。父に劣らぬ彫物の腕を持っていたことがかえって災いし、明治4年(1871)、異郷において31歳の若さで世を去りました。

神山政五郎(かみやま まさごろう)・1808から1892

郷土の彫物師神山政五郎は、文化5年(1808)に、上久我の二反(たん)百姓の長男として生まれ、石塚直吉知興の弟子となりました。記録が判明している最初の作は、日向(ひなた)神社(上日向)社殿全面の彫刻で、天保13年(1842)35歳の作です。しかし羽黒山(はぐろさん)神社(上河内町)本殿に残した彫刻が文政13年(1830)再建時のものであるならば、それは政五郎23歳の作となり、若くして豪壮な大作をこなしていたことになります。社殿彫刻では熊野(くまの)神社(上久我富沢)、小松(こまつ)神社(粟野町久野(くの))など、献額(けんがく)では加蘇山(かそさん)神社(上久我)、笠間(かさま)稲荷神社(茨城県笠間市)、天棚彫刻では河内町和久(わく)など、屋台彫刻では今市市春日町2丁目、氏家町上阿久津などに政五郎の作が残っています。政五郎の彫刻で特筆されるのは、小松神社などに見られる腰(こし)回りの四季農耕図です。一種の絵馬とも見ることができます。菊の彫刻に優れ、通称菊政(きくまさ)と呼ばれました。字(あざな)は彦徳(ひこのり)です。明治25年(1892)に85歳で亡くなっています。


掲載日 平成22年8月6日 更新日 平成28年11月16日
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