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刀剣作者

利行(としゆき)

古い刀剣書に「備前長船(びぜんおさふね)住利行、建武(けんむ)頃の人、二代あり良工」と記載されています。

細川良助正義(ほそかわ りょうすけ まさよし)・1758から1814

宝暦(ほうれき)8年(1758)、現壬生(みぶ)町上稲葉(かみいなば)の生まれで、18歳のとき父とともに鹿沼宿新町(あらまち)(現麻苧町(あさうちょう))へ移住。細川家は代々甲胄師(かっちゅうし)だったといわれますが、27歳のとき江戸へ出て、水心子正秀(すいしんしまさひで)の下で6年間修行した後、鹿沼に戻り、宇都宮藩刀工として作刀に励むとともに、多くの門人を育成しました。新々刀(しんしんとう)期の下野(しもつけ)鍛刀界の草分け的存在で、刀工細川一門の創始者です。文化(ぶんか)11年(1814)、57歳で没。

細川主税佐正義(ほそかわ ちからのすけ まさよし)・1786から1858

天明(てんめい)6年(1786)、初代正義の長男として鹿沼で生まれました。文化2年(1805)、父に倣って水心子門に学び、江戸で活躍。津山藩(岡山県)刀工となってから二代細川正義を襲名。師伝の備前(びぜん)伝を完成して名作を残し、新々刀期下野鍛刀界の最高峰とうたわれました。「作陽幕下士細川正義」の銘で知られ、門人にも多くの有名工が輩出しています。安政(あんせい)5年(1858)、73歳で亡くなりました。

細川仙之助正守(ほそかわ せんのすけ まさもり)・1822から1896

文政(ぶんせい)5年(1822)、二代正義の実子として江戸で生まれ、成人まで叔父の正平に育てられました。後に、実父の後継者として津山藩刀工となり、父に迫る良工として作刀に励みましたが、明治維新後は彫金(ちょうきん)師として生活し、明治29年(1896)、75歳で亡くなりました。

細川民之助正平(ほそかわ たみのすけ まさひら)・1794から1868

寛政(かんせい)6年(1794)、初代正義の次男として鹿沼で生まれ、鹿沼の本家を兄二代正義にかわって相続し、宇都宮藩刀工となりました。作刀は多くはありませんが、息子義規、兄の子忠義、正守や喜連川(きつれがわ)の金子平太など良工を育成しています。文化人でもありましたが、慶応(けいおう)4年(1868)、75歳で亡くなりました。

細川剛之助義規(ほそかわ ごうのすけ よしのり)・1815から1888

文化12年(1815)、正平の長男として鹿沼で生まれ、宇都宮藩刀工となりました。鍛刀技術に優れ、新々刀期下野第一の量産刀工でしたが、明治維新後は鹿沼宿副戸長(こちょう)、今宮(いまみや)神社宮司(ぐうじ)などを務め、明治21年(1888)、74歳で没。

細川子之助正規(ほそかわ ねのすけ まさのり)・1840から1923

天保(てんぽう)11年(1840)、宇都宮藩士中村源八郎の三男に生まれ、遠縁にあたる細川義規の養子となり、成人後義規の長女雄(ゆう)と結婚して義規の後継者になりました。宇都宮藩刀工となりましたが間もなく明治時代となり、明治21年(1888)に明治天皇大婚祝典に刀を献上して刀工の最後を飾り、大正12年(1923)、84歳で亡くなりました。

荒川喜平行秀(あらかわ きへい ゆきひで)・1810から1884

文化7年(1810)、八木沢俊秀(としひで)の高弟荒川直行(なおゆき)の長男として鹿沼で生まれ、宇都宮藩刀工として幕末に活躍しました。錠前技術に優れ、彫刻屋台(やたい)の金具も作っています。明治維新後は刀鍛冶を廃業。明治17年(1884)、75歳で没。

細川一門の略系譜

 細川一門の略系譜


掲載日 平成22年8月6日 更新日 平成28年11月14日
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