このページの本文へ移動
色合い 標準 青 黄 黒
文字サイズ 標準 拡大 縮小
RSS
トップ文化財文化財一覧> 鑑賞のポイント

鑑賞のポイント

建造物の鑑賞のポイント
絵画の鑑賞のポイント
彫刻の鑑賞のポイント
工芸品-刀剣の鑑賞のポイント
工芸品-屋台の鑑賞のポイント

建造物

神社に見る優れた建築彫刻

鹿沼市には、全面彫刻で飾られた屋台(やたい)がありますが、屋台と同じ頃、近世後期に建造された神社の多くも、彫刻で飾られています。社殿の形式としては、ほとんどが一間社(いっけんしゃ)流造で、その規模は、身舎(もや)軸部が1mから2.5mのものが大半を占めています。そのほかは三間社流造、入母屋造などです。中世については、厳島(いつくしま)神社(板荷(いたが))の文明(ぶんめい)6年(1474)の棟札(むなふだ)(市指定文化財)や、天満宮(てんまんぐう)(天神町)にある天正(てんしょう)17年(1589)銘の宮殿(くうでん)屋根(市指定文化財・考古資料)により、神社建築の遺構を偲ぶほかありません。
近世前期末に建造された磯山(いそやま)神社本殿(磯町)今宮(いまみや)神社社殿(今宮町)は県の文化財に指定されています。磯山神社は、三間社流造で、軸部・軒回り・破風など形式的に整い、保存状態もよく、時代の特色をよく伝えています。
典型的・一般的な近世前半の社殿建造物といえます。今宮神社本殿は、桃山風の豪壮な一間社流造で、ことに切妻の大瓶束(たいへいづか)・虹梁・蛇腹支輪(じゃばらしりん)・蟇股(かえるまた)などにその特色が見られます。日光山社寺の影響からか、当初から彩色が施されていました。なお、本殿大羽目(おおはめ)や脇障子の彫刻は時流に合わせて近世末に嵌め込まれたものです。
近世中期の当地方神社建築の時代区分としては、安永(あんえい)・天明(てんめい)の頃まで(から1788)となります。この時期から、小規模ながら社殿はしっかりした腰組上に縁をめぐらすようになり、柱や長押(なげし)などにつなぎ文の模様彫が盛行してきます。社殿の装飾化はあまり進まず、向拝部や蟇股などに彫刻が見られる程度です。
日吉(ひよし)神社(日吉町)大羽目の穏やかな浅肉彫や中備・脇障子・切妻などの彫刻が近世中期後半の様式を伝えています。また、住吉(すみよし)神社(見野)の縁は板持(いたもち)送りですが、羽目などに彫刻はなく、柱の麻文(あさもん)や中備蟇股彫刻に、同じ時期の特色を見ることができます。日吉神社(下南摩町)(市指定文化財)の社殿は方形造のためか、彫刻は向拝と方立(ほうだて)ぐらいです。(後日調査により、本殿は春日造、延宝3年(1675)建築を天明期に改修、彫刻追加と判明)
幕藩体制による徴税や公安の締めつけにもかかわらず、近世宿村民の隠れた力の蓄積は、社寺の再建と祭礼を復活する原動力となり、近世中期末から始まった社殿などの彫刻による装飾化を推し進めました。この現象は近世後期になると流行となり、文化(ぶんか)から文政(ぶんせい)期(1804から1829)には構造材に彫物が彫られ、羽目などの壁面は彫刻で埋めつくされていきます。ことに、下野(しもつけ)においてその傾向が顕著なのは、日光東照宮彫刻の影響を考えないわけにはいきません。
その早い時期として、文化年間の稲荷(いなり)神社(北赤塚町)と、市指定文化財の久我(くが)神社(下久我)があります。そして、その極みが、天保(てんぽう)年間の日向(ひなた)神社(上日向)や日枝(ひえ)神社(板荷)です。日枝神社は、羽目・小壁・妻・束間(つかま)・縁下回りなど、壁面はすべて彫刻で埋めつくされ、材料が欅(けやき)なので全体的に重厚な感じがします。また、丸彫(まるぼり)の海老虹梁手挟との一体的な図柄など、構図も凝ってきています。市指定文化財の星宮(ほしのみや)神社(戸張(とはり)町)も典型的で、軸部方0.8mの小型ながら、全面彫刻で飾られています。県指定文化財の今宮神社の唐門もこの時期(嘉永(かえい))のもので、栃木県における近世末期の唐様(からよう)建造物の代表的なものです。非常に安定感があり、繊細な彫刻もその特長の一つです。
近代になってからも、明治時代前期まで、近世後期の流れを受け継いでいます。落合(おちあい)神社(酒野谷(さけのや))は三間社流造で、大羽目彫刻こそありませんが、社殿前面には丸彫・籠彫(かごぼり)など手の込んだていねいな作が施されていて、彫刻は浜縁(はまえん)下まで及んでいます。明治時代後期以降、近現代に建造された神社は、例外を除いて彫刻を伴わなくなります。
以上の神社彫刻については本殿のみにいえることで、拝殿などには装飾彫刻はほとんどありません。向拝付の場合に中備や木鼻などに彫刻が見られる程度です。ただ、古峯(ふるみね)神社(草久(くさぎゅう))は、特異な神社形式のため、拝殿の向拝部にあたる外拝殿は、左右に格子(こうし)障子をもつ板扉つきで、左右の羽目を除き、脇障子を含めて彫刻で飾られています。
なお、市内の近世寺院建築における彫刻による装飾化はあまり見られませんが、ただ、堂宇内欄間(らんま)彫刻は、社殿彫刻の早い時期である近世中期に、すでにあらわれています。

 

絵画

南画の名手高久靄厓の豊富な作品群

 鹿沼市には、古代・中世の作品が現在のところ確認されていません。しかし江戸時代の有名な南画家・高久靄厓が居住したこともあって、市内の旧家や好事(こうず)家の間に彼の作品が多く伝存していて、県や市の文化財に指定されています。
高久靄厓は青年時代を鹿沼で過ごし、当地の文化人であった鈴木松亭(しょうてい)や水雲(すいうん)、大谷渓雲(けいうん)、山口安良(やすら)、柿沼廣運(こううん)らの援助を受け、画業に専念することができました。
当時の鹿沼は、鈴木石橋(せっきょう)の私塾麗澤(りたく)の舎(や)奈佐原宿の文楽(ぶんらく)、あるいは華麗な彫刻屋台(ちょうこくやたい)で知られるように、町人たちを中心に高度な文化が発達していました。そのような文化的雰囲気の中で、狩野派(かのうは)のように型にはまった画風ではなく、自由で清新な南画の作風が知識人たちの共感を呼んだのです。江戸時代も末期になると、地方在住の地主や豪商の支持を受けながら、南画は全国的にひろがっていきました。鹿沼においても同様であり、その中心に靄厓がいたのです。
南画の画題は、一般的に山水や四君子(しくんし)(菊・竹・梅・蘭)が多く、画上には漢詩や漢文が題されるなど、中国趣味豊かな作品が多いため、異国情緒にあこがれた文化人たちの心を引きつけました。靄厓自身も中国の明清(みんしん)時代の伝統的南宗画に傾倒していて、それらの模写もしくは少し変形したような作品を多く描いています。彼の絵は穏やかでしっとりと叙情的であり、その品位が鹿沼の文化人をも含めた当時の人々の心をつかんだのです。
ほかに江戸時代の作に、明末の乱を避けて17世紀後半に来日した中国浙江(せっこう)省出身の東皐(とうこう)心越(1639から1695)の代表作「虎渓三笑図」(こけいさんしょうず)が光明寺(こうみょうじ)(樅山町)(もみやままち)にあります。彼の絵は文人趣味豊かで日本の初期文人画にも多くの影響を与えました。徳川光圀(みつくに)に招かれて水戸に来住、本県の烏山や那須温泉にも来遊していて、県内各地に何点か作品が残っています。今宮(いまみや)神社には天文(てんぶん)15年(1546)銘の雪村(せっそん)(常陸(ひたち)国・佐竹一族出身)筆「百馬図帳」(ひゃくばずちょう)があります。残念ながら模写本ですが、雪村は天命茶釜にも名前を残していて、鹿沼に立ち寄った可能性もあります。本図では馬のたてがみや尻尾を淡墨(たんぼく)刷毛で描き、目を点描(てんびょう)にするなど鹿島神宮(かしまじんぐう)(茨城県)蔵の「百馬図帳」と同一筆法です。ほかに中西善之丞(ぜんのじょう)の描いた「両界曼荼羅図」(りょうかいまんだらず)が正蔵院(しょうぞういん)(西沢町)にあります。
明治45年(1912)から5年の歳月をかけてつくられた久保町の掬翠園(きくすいえん)には、中村不折(ふせつ)の書や五島耕畝(こうほ)、橋本永邦(えいほう)、真野暁亭(まのぎょうてい)、吉田秀邦(しゅうほう)など文展(ぶんてん)や帝展(ていてん)系の作家たちの絵が板戸や襖に描かれています。これにより、長谷川唯一郎(1873から1957)を中心とする鹿沼の文化人と中央画壇の作家たちとの交流がしのばれます。
鹿沼出身の画家として、鈴木水雲(1796から1866)や竹井漣洲(れんしゅう)(1850から1926)、島多訥郎(しまだとつろう)(1898から1983)などが挙げられます。市内には小杉放菴荒井寛方寺崎広業などの作品を所蔵した方々がおり、それらの作品が県の文化財に指定されています。

 

彫刻

鹿沼の仏像

仏像が初めて造られたのは、紀元2世紀の中頃です。日本に伝来したのは公伝では欽明(きんめい)天皇13年(538)とされています。本県内に伝存する最古の仏像は下野薬師寺(しもつけやくしじ)跡から出土した奈良時代の如来像の螺髪(頭の一部)です。
現在、鹿沼市内で確認されている最も古い仏像は建保(けんぽ)6年(1218)の陽鋳銘をもつ鉄造薬師如来坐像(てつぞうやくしにょらいざぞう)(上石川薬師堂)です。関東を中心に100件近く確認されている鉄仏(てつぶつ)の中でも最古の作で、その荒々しい鉄肌が鎌倉時代の武士たちの感性にピッタリ合ったものと思われます。
鎌倉時代の金銅仏(こんどうぶつ)では広済寺(こうさいじ)(北赤塚町)の阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)(善光寺(ぜんこうじ)式)があります。
平安時代末期から信濃(しなの)善光寺への信仰が全国的に広がり、その阿弥陀三尊の模刻(もこく)像が多く造られましたが、本像もその一つです。鋳造(ちゅうぞう)技術もよく、華麗な文様や毛彫(けぼり)のこまやかな刻みなどデリケートな作です。木造では秘仏(ひぶつ)のため指定になっていませんが、薬王寺(やくおうじ)(石橋町)の本尊薬師如来坐像も鎌倉時代の作です。宋風様式の影響を受けた作で、目尻の切れあがった強い目線や口元の引き締まった意志的な表情など、小像ではありますが堂々とした大作の風格をもつ像です。ほかに光明寺(こうみょうじ)(樅山町)(もみやままち)の本尊阿弥陀如来立像(りゅうぞう)や、千手院(せんじゅいん)(千手町)の本尊千手観音(せんじゅかんのん)坐像も鎌倉時代後半の作です。前者は彫りの浅い優美な作風であり、後者は肉厚で像底部を上底式にするなど慶派の影響を受けた作です。南北朝時代のものに興源寺(こうげんじ)(加園)(かぞの)の薬師如来坐像があります。後世の墨書ですが貞和(じょうわ)5年(1349)の銘があり、様式的にもその頃の作です。
室町時代の作に、永林寺(えいりんじ)(上石川)の木造千手観音坐像と大日堂(だいにちどう)(下田町)(しもたまち)の銅造大日如来(どうぞうだいにちにょらい)坐像があります。鎌倉時代も後半になると、造形的に見るべきものがなく、マンネリ化の傾向を強めていきます。また、鎌倉時代に興った浄土宗や禅宗など、実践活動を重視する宗派の台頭も衰退に拍車をかけ、新しい時代様式を創造することはありませんでした。江戸時代においても同様です。このような中で、熱烈な信仰心によって新鮮で生命力のある仏像を製作したのが円空木喰です。
木喰は安永(あんえい)9年(1780)、63歳のとき栃窪(とちくぼ)に来ていて、5カ月間で薬師三尊像と十二神将像を製作しました。円空も日光山には2度来ていて、天和(てんな)2年(1682)銘の像が広済寺にあります。江戸の仏師では安永7年(1778)に箱崎石見(はこざきいわみ)が天満宮(てんまんぐう)(天神町)の天神像を、幸慶(こうけい)が正蔵院(しょうぞういん)(西沢町)の愛染(あいぜん)明王坐像をそれぞれ製作しています。地元仏師では、宇都宮で江戸時代初期から明治末年まで250年間続いた高田家七代運秀(うんしゅう)が製作した、文政(ぶんせい)3年(1820) 銘の不動明王(ふどうみょうおう)立像と弘化(こうか)2年(1845)銘の千手観音坐像が不動堂(ふどうどう)(上久我)にあります。ほかに鹿沼在の仏師高松吉充(よしみつ)が文政11年(1828)に杉本稲荷(すぎもといなり)神社(酒野谷)(さけのや)の御神体像を製作しています。いずれも江戸期特有の形骸化した作品です。

 

工芸品

刀剣-新々刀期の野州鍛冶

 刀剣は、その製作年代によって安土桃山時代の慶長(けいちょう)年間(1598頃)を境に、それ以前を古刀(ことう)、以後を新刀(しんとう)と呼んでいます。新刀は、さらに安永(あんえい)年間(から1780)以後のものを新々刀(しんしんとう)と呼んで区別しています。栃木県内では、古刀期、室町時代の徳次郎(とくじら)(宇都宮市)と、新々刀期、細川一門の活躍した鹿沼が、記録に現れる刀剣の主要な製作地となっています。徳次郎鍛冶の鍛えた刀はたび重なる戦乱で消耗し、現存する作品は少ないのですが、細川一門の作品は、時代が新しいためか、その多くが保存されています。
細川一門の創始者となったのは細川良助正義で、江戸の水心子正秀(すいしんしまさひで)の下で修行に励み、故郷鹿沼で刀鍛冶を開業しました。
水心子正秀は、久しく沈滞していた鍛刀界を復活して新風を吹き込み、新々刀の始祖といわれていました。新々刀期下野(しもつけ)鍛刀界の最高峰とうたわれた二代細川正義は、初代の長男で、父に倣(なら)って水心子に学び、津山(つやま)藩(岡山県)刀工となりました。
江戸で大成した二代正義に対して、弟の正平が鹿沼の生家を相続し、息子義規、義規の養子正規と 3代にわたって宇都宮藩刀工を務めました。また、二代正義の息子たちも、正守が津山藩、忠義(ただよし)が佐倉(さくら)藩(千葉県)、正長(まさなが)が六浦(むつうら)藩(神奈川県)刀工となり、細川一門の足跡は、鹿沼を中心に全国的な広がりを見せます。
一方、初代正義と時を同じくして、水心子門下の八木沢忠吉俊秀(としひで)も故郷鹿沼で刀鍛冶を開業し、寛政(かんせい)6年(1794)、宇都宮藩刀工となっています。
門人の荒川貞五郎直行(なおゆき)とその子喜平行秀も宇都宮藩刀工として活躍しました。このように幕末の鹿沼は、細川一門を中心に下野第一の刀剣製作地となり、関東地方に鹿沼刀工の名声が伝わりました。

 

屋台-全面を飾る華麗な彫刻

鹿沼市は、昔から木工のまちとして栄え、その象徴として、10月第2土・日曜日の今宮(いまみや)神社例祭の付け祭りに氏子町が繰り出す彫刻屋台(やたい)を見ることができます。
鹿沼の屋台が記録に初めて見られるのは、安永(あんえい)9年(1780)です。移動できる簡単な屋根付きの吹き抜けの踊り舞台で、彫刻などはなく、「踊り屋台」と呼ばれていました。寛政(かんせい)(1789から)以降、付け祭りは盛大となり、各町は、その主体である踊り・狂言を競い合いました。屋台は造りかえられ、囃子方(はやしかた)が中に入ったので芸場は狭くなり、別に「踊り台」(舞台)を設けて屋台の前面に据え、狂言や踊りを演じました。華美な演芸とのつり合いから、屋台は黒漆塗(くろうるしぬり)となり、一部彩色彫刻(さいしきちょうこく)で飾られ、ここに彫刻屋台の祖形ができあがりました。
太平の世を賛美した文化(ぶんか)から文政(ぶんせい)期の反動から、幕府は文政(1827)・天保(てんぽう)(1841)の両改革を実施して、取り締まりを強化し、祭礼を質素に、在郷芝居を禁止してしまいます。 芝居が禁止されたことで、各町の付け祭りにおける意気と力の競い合いは屋台を飾ることに移りました。近くの日光山社寺の豪華な彫刻の影響もあり、全面彫刻のみによって飾られた屋台が完成したのです。
当時の建造物の彫刻はすべて彩色されていましたが、華美の禁止令と、演芸の背景としての屋台ではなくなったことにより、幕末になると彫刻は彩色されず、白木造(しらきづくり)屋台の出現となりました。すなわち、彩色彫刻黒漆塗屋台から白木彫刻白木造屋台にかわったのです。鹿沼市には31台の屋台がありますが、そのうち江戸時代からのものが13台あり、そのうち彩色彫刻屋台は6台、白木彫刻屋台は7台あります。以下13台についての説明です。
鹿沼屋台の標準の大きさは、間口が6尺(1.8m)どり、奥行が12尺(3.6m)どりで、高さは箱棟上まで4m前後です。
屋台の構造は単層館(やかた)型で四つ車、内部は内室と芸場の2室からなり、内室には囃子方が入ります。内室側面二間(ま)に障子(しょうじ)を入れ、高欄をつけ、後ろにも回し、芸場側面に両面彫の脇障子を入れています。
屋根唐破風付きで、棟は箱棟です。
鹿沼屋台は、全面彫刻によって飾られる点を特色としていますが、彫刻最大の所見は芸場左右の脇障子と、唐破風板上下の鬼板懸魚です。脇障子は蝶番(ちょうつがい)でとめ、昔は前方に踊り台を設けて演芸を行ったとき、外側に開いて舞台の背景ともしましたが、今は固定されています。
彫刻の題材として圧倒的に多いのは龍です。屋台の顔である鬼板・懸魚を見ると、過半(7)の町内が占め、高欄下車隠しでは10町内を数え、全く見られないのは石橋町(いしばしちょう)(菊に統一)だけです。
次が牡丹(ぼたん)に唐獅子(からじし)で、そのほか、木鼠(りす)に葡萄(ぶどう)、鷲(わし)に猿などです。彫刻材は、栃(とち)・銀杏(いちょう)・柳が多く用いられています。
屋台は、地元の大工により建造されています。彫刻代を含めた屋台建造費は、寛政6年(1794)の仲町(なかまち)で18両、安政(あんせい)4年(1857)の麻苧町(あさうちょう)で242両余です。
祭りや屋台建造の経費は、氏子町内の一人ひとりがその分に応じて拠出しています。拠出の方法として寛政年間の仲町を例にとると、富裕度に応じての分限割(ぶんげんわり)、日掛(ひがけ)による祭銭取り立て、若衆への若衆割、富くじによる富集高(とみあつめだか)の4本立てによっています。
屋台本来の機能は氏神への奉納用の移動舞台です。かつての芝居の場であり、踊りの場であり、現在のお囃子の場であります。さらに大切なことは、町内の団結・協調・秩序の維持や親睦・娯楽の場でもあったということです。  

 


掲載日 平成22年9月3日 更新日 令和2年3月24日
このページについてのお問い合わせ先
お問い合わせ先:
教育委員会事務局 文化課 文化財係
住所:
〒322-0069 栃木県鹿沼市坂田山2-170(市民文化センター 3階)
電話:
0289-62-1172
FAX:
0289-65-6742
Mail:
(メールフォームが開きます)

最近チェックしたページ

このページを見た人はこんなページも見ています